成田さんの師匠は大崎映晋さん
大崎映晋さん(1920~2015)の人生を、おもに書物をたよりに辿ってみようと思います。
なんといっても
超一流のダイバーであり
水中写真家であり
水中考古学者であり
海女文化研究家でもあった
大崎さんの人生を。
戦火の中を生き延びる
群馬県前橋市に誕生した、大崎映晋さんの思春期は、五・一五事件や二・二六事件につづいて、日中戦争が始まり、日本が悲劇へと向かっていく時代にありました。
しかしそんな未来を市井のだれが予測できたでしょう。
大崎さんは川遊びが大好きで、潜ってヤマメを上手にとる子どもでした。
18歳のときには、トレジャーダイバー片岡弓八氏の自宅を訪ねて、門下生となり、ダイビングを学んで海に親しんでいきます。
その技能を生かして、海軍水路部(現・海上保安庁海洋情報部)の、潜水技術を学べる、海軍特別技術生徒に、志願しました。
そして大崎さんは、海軍軍機室というところの、要員として採用されました。
すると、1941(昭和16)年、日米が開戦。
真珠湾攻撃
海軍軍機室の、軍機とは、軍事上の大事な秘密事項のことを意味します。
その部署で大崎さんは、「ハワイ真珠湾特別攻撃無線方位図」を、つくる仕事にたずさわりました。
そんな重要な部署にいたため上司から、身分を隠すために、大学受験をするようにと強く勧められ、中央大学に進学しました。
講義はおもに夜に受けました。
が、卒業がくり上げられて、応召させられそうになった大崎さんは、東京美術大学(現・東京芸術大学)油画科も、つづけて受験し合格しました。
軍機室には大学に行くと届けながら、大崎さんは学友と湘南の海などへも出かけて、後に妻となる女性と知り合いました。
1943(昭和18)年、画学生でもあった大崎さんですが、やはり召集令状が届きます。
沖縄守備隊への転属を命じられ、輸送船で向かいました。
沖縄は、本土防衛のための防波堤です。
ところが大崎さんの乗った輸送船は、沖縄の手前で魚雷攻撃を受けてしまいます。
膨大な重火器やガソリンタンクを船は積んでいたため、一瞬にして火の海になりました。
救命胴衣を、着けたままで海に浮いていたら、かえって焼け死ぬ! と大崎さんは救命胴衣を脱ぎ捨てて、火の海から、大やけどを負いながらも泳いで、なんとか生き延びました。生存者は3685名中64名でした。
米軍の沖縄上陸
1945(昭和20)年、敗戦。
大崎さんは沖縄の米軍捕虜収容所にいました。
ですが、英会話能力もあったため、そこでは大崎さんは、アメリカ憲兵隊の通訳を命じられました。
昭和の混乱期を生き通す
戦後も、大崎さんの波瀾万丈はつづきます。
群馬県の実家にもどり農業にたずさわったり、それから東京美術大学で、数名の学生とともに共同生活をし、歌麿の秘画を模写して米兵に売ったり、それからまた、アメリカ空軍横田基地にて、通訳兼案内係として働いたり、と様々なことをしました。
米軍幹部と日本の指導層との、ちょっとした意見交換の場に、大崎さんが同席したこともありました。
敗戦を挟んでも、日本の指導層はさほど戦前とは変化しませんでした。ソ連とアメリカによる冷戦が、すでに始まっていた影響もあったのでしょう。
元陸軍大学校長であった、賀陽宮 恒憲(かやのみや つねのりおう)殿下とも、大崎さんは出会いました。賀陽宮は1947年に皇籍を離脱しますが、それでも、やんごとなき方です。
その賀陽宮邸に居候しながら、大崎さんは日本の食糧増産のためにと、マッシュルーム栽培を行い、おおいに成果を出したこともありました。
明治生命館・GHQ
その後、GHQより呼び出されて、沈船を引き揚げる仕事もしました。
そんな折、米海軍中将から告げられます。
開戦前に君は、軍機室の要員としてハワイ真珠湾作戦に関与したため、つまり「ハワイ真珠湾特別攻撃無線方位図」をつくる仕事をしていたため、今現在、パージ(追放・粛清)の、候補に挙がっているぞと。だからすぐに地下に潜れ、逃げるんだと。
極東軍事裁判も、BC級戦犯裁判もすでに行われている時期でした。
大崎さんは、愛媛県を目指します。
かつて湘南の海で出会った女性、喜美子さんを頼ったのです。
大崎さんはそれからパージの候補が解かれるまでの約3年間、喜美子さんの父親が管理していた、青滝山の原生樹林で、山の管理を手伝いながら潜伏生活を送ります。
1947(昭和22)年、大崎さんと喜美子さんは内輪の結婚披露をしました。
経済成長と共に
1952(昭和27)年、大崎さんは、日本初の報道写真家であった、名取洋之助の門下に入ります。
土門拳、木村伊兵衛、藤本四八、秋山庄太郎氏などが同門です。
大崎さんはこれ以降、得意の泳ぎを活かし、水中写真家として、国内外の映画の水中撮影を手がけていきます。
海外でも、ハリウッドだけでなくドイツ、フランス、イタリアなどの会社と仕事をし、時差ぼけ、などと言っている暇もなく立ち回りました。
1960~61(昭和35~6)年 サンタモニカ国際写真コンクールにてアカデミー賞受賞
1966(昭和41)年 サンディエゴの世界水中写真コンテスト モノクロ写真部門でアカデミー賞受賞
1967(昭和42)年 サンディエゴの世界水中写真コンテスト カラー写真部門でアカデミー賞受賞
ノーベル文学賞作家パール・バック(Pearl Buck)と、映画『大津波』を撮ったこともありました。
パール・バック
大崎さんは原発関連の仕事もしました。
日本初の原子力発電所建設用地が、茨城県東海村に決まった時には、用地沖の海洋基礎調査を行いました。
浜岡原発に不具合が起きた際には、原発沖の海底を調べました。
青森県六ケ所村に、核燃料再利用や核廃棄物貯蔵、といった巨大な施設がつくられる前段の、防波堤のための海底調査も行いました。
日本は経済を発展させていくなかで、原発を造りつづけました。
大崎さんは原発関連の仕事を、悪魔に手を貸した、と省みていますが、冷静な分析も残しています。
たとえば、浜岡原発沖の海底のことを、───無限に広がる砂漠であり、見ている前で、小さな砂丘が動き出す、と大崎さんは観察し、原発が、活断層の上に広がる砂漠に建っていると指摘しました。
おそらく海を見たこともない者たちが、この原発のシステムを考えて、デザインしたのだろう、と断じています。
浜岡原発
歴史を探る
1957(昭和32)年 ドキュメンタリー映画「日本の海女」がカンヌ映画祭に出品され、話題になりました。
大崎さんは、海女の風習や暮らし振りを調べるだけでなく、彼女たちのルーツについても辿り、およそ2万年前の、縄文人の採集生活なども調べ上げた上でカメラを回しました。
こだわって徹底して、仕事をした方でした。
そしてまた大崎さんは、国内外の多くの沈船も潜っています。
たとえば開陽丸。
官軍と幕府軍が、函館戦争を戦った明治元年。
開陽丸は、官軍を海側から、その砲撃によって一気に崩壊させるために北上していったのでした。
ですがその作戦前夜に、激しい時化に襲われて座礁し、船は沈没してしまった。
開陽丸
歴史の語り部にもなりうるその開陽丸は、後世に、静かに引き揚げられるべきでした。
ところが日本の高度成長期に、その沈んでいる船体の、ど真ん中を横断するようにして、大きな防波堤が、建設されたのです。
大崎さんたちはその後に、船の引き揚げにたずさわりました。
防波堤の内側と、外海の側との、遺物処理の違いを考慮しながら、武器、船具、弾丸、機関部品、日常生活具などを引き揚げました。
「発掘した遺物は生々しかった。さっきまで使われていたような、生き生きした感じがした」
と、大崎さんは感嘆しつつ記しています。
「素材の中には、急に空気中へ引き出すと、あっというまに崩れてしまうものもあるため、材質別の脱塩処理が重要だ」
そうして次のように、大崎さんは結んでいます。
「しかし日本は、周囲を海に囲まれた海洋国家であるにもかかわらず、自国の領海内に、沈船が何隻あるかも調べていない。水中考古学が発展していない国である」
師匠と弟子
成田均さんは、高校卒業後の受験勉強中に、初めてスクーバダイビングを知りました。スクーバは、水中呼吸器と空気のタンクを使って潜るダイビングです。
その新しい世界に触れた成田さんは、一冊の本を手に取りました。大崎映晋さんの著書でした。
読了後さっそく手紙を書いて、著者本人のもとへと向かいました。
これはつまり、大崎さんが、師匠となる片岡弓八氏の自宅へと、みずから出向き、だからそれは押しかけて、門下生にしてもらったように、成田さんも、大崎さんのもとに押しかけて弟子になった、ということではないかしらん。
弟子は、師匠のパターンをおのずと踏襲していた、ということでしょうか。
大崎映晋さんは、その後も活躍なさいました。
ブルーノ・バイラーティと映画を製作したり、台湾の、中国文化大学大学院教授に就任したり、サイパン政府の顧問に就いたりもしました。
そして1990(平成2)年、ライフワークであった『世界水中考古学事典』を完成させます。
昭和から平成へ、タフに生きた大崎映晋さん(1920~2015)。
その生涯をたどってみると、一代スペクタクルですよね。
日本国には、日中戦争や太平洋戦争があって、だれもが抑圧されて生きたのでしょうが、大崎さんは、時代の困難さをもタフに跳ね返して、生き通したんだなと思いました。
とはいえ、大崎さんの原点は、海が好きという気持ちだったようです。
海に潜るその瞬間を、次のように記しています。
「背筋にゾクッとくる感動で、全身に痺れが走る。どこの海でも、この一瞬の昂ぶりが、私に感動の衝撃を与える。
これが病み付きなって、私を未知なる海へと誘うのだ」
「ああ、こんなところが好きだ。私の世界はここなんだ。私が海に魅せられてきた思いが、心にじんと染みてくる」
引きつぐ
成田均さん
上記のように、大崎さんがタフにハードに仕事をした時期を、門人として成田さんは伴走してきました。
そしていま、大崎さんから引き継いだものをベースにしつつ、その先へと、成田さんは歩みを進めています。
それからもう一人のダイバー、ジャック・マイヨールさんからの影響も、成田さんには計り知れないくらいあったのですね。
ワタシらはだから次には、ジャックさんとの出会いを辿ってみようと思うんです。