政治の中の皇室より
慰霊(いれい) と 慰藉(いしゃ)
かえりみると無知すぎて、恥ずかしくなります、ワタシらは。
宮古島、石垣島、奄美群島に、サイパンやペリリューなどの離島へ、日本の天皇・皇后両陛下が、旅をされるのは、── そののちに上皇・上皇后両陛下になられましたが ── それはなんといっても、島々がお好きだからだ、そうに違いないとワタシらは理解してたのです。
ではいずれは、こども嵐土へもお越しいただこう、と盛り上がりもしました。
本当になんてことでしょう。
当時、両陛下は島々へ、「慰霊」のために出向かれていたのですね。
先の大戦でたおれた人々の、霊をなぐさめ鎮めるために。
そのことをワタシらは知って、大いに反省しました。さっそく学ぼうと決めました。
硫黄島
サイパン島
ペリリュー島
すると「慰霊」の他に、もう一つ「慰藉(いしゃ)」も、天皇が行う象徴的行為だと分かりました。
「慰藉」は天皇が、地震や台風被害などに遭った現地へおもむかれ、傷付いた人々に寄り添って、お見舞いするという行為です。
そもそも天皇のお仕事は、憲法にも記されていますが、古くからの祭祀を執り行うこと、そして国事行為を行うこと、つまり内閣総理大臣や最高裁長官を任命し、国会を召集し、法律を公布し、内閣からとどく多くの書類に署名したり、外国の大使や公使を接受する…など、数々の公務をなさることです。大変にお忙しい。
そのうえに「慰霊」と「慰藉」という象徴的行為も、重要な役割であると、明仁天皇の時代に、みずからが位置づけられたようでした。
平成28年に国民に向けて語られた、ご自身のビデオメッセージでも、そのことは表されていました。
日本国憲法 第一条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」とあります。であるから、象徴としての行為というものが、ポイントになってくるのですね。
ワタシらは現在の天皇制についてを、わずかに学んだだけです。
ですが、それはとても興味不深く、「慰霊」や「慰藉」については大変こころに沁みました。
ところが、ですね、上記とは違う天皇制の考え方も、日本国にはあるらしいのです。
はて。
それはいったい、どういうものでしょうか…
小野次郎さんのお話
小野次郎さんは、ご自身の学説「主権者学」の中で、「政治の中の皇室」という項目を立てていらっしゃいます。
この際ぜひ、お話をうかがおうと思いました。
以下が小野さんのお話です。
前に、天皇の生前退位について話し合う、有識者会議があってね、学者や専門家が集められたんですよ。
すると、政府有識者の中に、次のようなことをいう人がいたんです。
求められてもいない台風の被災地を、天皇が訪問したり、それから戦争で人々が亡くなった南方の島へ、天皇が祈りに行かれるのは、それは行くのは、自由だけれど、だけどもそれらの事は、憲法の中で求められている行為では無いではないか。
さまざまな国事行為を行ったり、儀式を行うことは憲法に書かれているが、慰霊や慰藉の記載はない。
そういった行為を、体力が落ちてきて全身全霊でやれなくなったから、だから次の天皇に代わってくれというのは、今の天皇の、ある種のわがままだろう。
と、そういうふうに言った人がいたんですね。
その人の考えでは、天皇に求められているのは一つには、天皇制を継続させるという、いわば生殖行為によって子孫を残していくということ。
それともう一つには、憲法が認めている祭祀をすること。
だから宮中にいて、そこで祈っていればいいんだということです。
そういった方たちは、万世一系といって、男性天皇しか認めないのですよ。
今はだんだん皇族が減ってきてるんだから、女性だって認めなきゃダメでしょう、女性天皇の問題もあるし。
でもそれは、認めないと。堅い天皇制をイメージする人たちですね。
私は、皇室の中のことは、できるだけ皇室の意向に沿うようにしたらいいと思っています。
皇室典範も、皇室の意向に沿って改正すればいいと思うんですよ。
でも、堅い天皇制にこだわる人は、皇室典範に、書けないこともあるんだという。
すごくイデオロギー的なんです。
つまり天皇制を、一つのフィクションとして完結させたいのじゃないでしょうか。
歴史を学ぼう
小野さんからお聴きした、万世一系と、イデオロギー的という言葉をヒントに、ワタシらは、日本の歴史書を読んでみました。
そして次のことを知りました。
明治維新によって新しくできた政府は、その成立が正当であるという根拠を、古事記や日本書紀の、神話にルーツを持っているという、万世一系の天皇に求めました。
万世一系とは、永久に一つの系統がつづくということです。
古事記や日本書紀に登場する神武天皇は、紀元前711年の生誕で、127歳か、137歳で、没したということです。ものすごく長生きです。
そして神武天皇の即位の年である、皇紀元年は、紀元前660年。
それは、縄文時代の後期にあたります。縄文土器をつくり、竪穴住居に住まっていた頃でしょう。
そのような神話的な時代から、ずうっと繋がってきているのが、天皇家の万世一系である、ということのようです。
明治憲法(大日本帝国憲法)も、万世一系の、神聖にして不可侵の天皇が、国の元首として、統帥権を総覧(そうらん)する、と定められました。
統帥権を総覧するとは、軍隊のすべてを一手に握るということですね。
そうして、主権は天皇にあり、国民は、臣民といって、天皇に支配されるものと位置付けられました。
このように、万世一系の天皇が統治することが、日本の国柄である、国体である、といったイデオロギーが、明治時代にととのえられました。
現在では、しかし神武天皇は、実はフィクションだったと分析されています。
神武天皇の陵は、幕末に一つのミサンザイ(古い貴人の墓)を択んで、そこを、次第に大きく立派にして仕立てていったのだそうです。
以上をワタシらは学習しました。
なるほど、そうだったのか。新しく生まれた国家権力が、国民を統治していくために、万世一系の、天皇制イデオロギーというものを必要としたのか、と思いを馳せました。
明治の新政府は、ブランド力を欲したのですね。
新しい国家権力の、正当性を保つために、フィクションからでも引いてこなければならなかったのですね。
ちなみに、現在の天皇家は、江戸時代の光格天皇(1771~1840)の直系だそうです。
第119代 光格天皇像
(東京大学史料編纂所蔵・模本)
さらに、
小野さんのお話「政治の中の皇室」
いまの、日本国憲法が定めている天皇制というものには、二つの考え方があってね、それが混在しながら、70年以上を経てきたと、私は思うんですよ。
まず一つには、憲法に主権在民が書き込まれ、施行され、天皇という主権者はいなくなった。憲法の中の天皇の部分は、書き足した特則なんだ、という考え方。
もう一つには、天皇や皇室のやっていることには、長い伝統があって…いや、そこに万世一系は関係ないんですよ、念のために……その長い伝統の中の、ごく一部だけが、今は憲法上に規定があるんだという考え方。
この二つが混在してきた。
私が官僚をやり、総理秘書官をやって見てきた中では、皇室と政府の関係は、なかなか説明を付けられないことが、多いんだということでした。
本当にさまざまな慣例がある。
例えば、天皇陛下がお仕事で、羽田空港を使われる時とか、または東京駅から新幹線で行かれる時とかは、送り迎えに、三権の長が立ち会うっていうのがあるんですよ。
その時には、総理大臣と衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官が、駅で立つんですよ、原則は。
ただ、最高裁判所長官が天皇とどういった関係があるのか、ってことなんですよね。司法権の長が、ね。でも立つんです。
それは昔は、近衛や鷹司や左大臣右大臣、大納言中納言がやっていた事なんでしょう。
明治になると、朝廷でやっていたことを政府が当たることになって、そして続いている。
小泉政権の総理秘書官だったから、私もそういう場に行きましたよ。
すると三権の長が立っている目の前を、電車や、乗り物から降りてきた当時の天皇皇后両陛下が、歩いていかれて、ご苦労さま、と美智子皇后が声をかけられて、それで、すすっと通り過ぎてゆくんです。
それだけなんです。そのために総理大臣や、三権の長が立っているんですよ。
それを見たときに私は、ああ、日本の国っていうのは、日本国憲法で国家ができているというよりも、もっと昔からの、天皇の国っていうのがあってね、その家臣みたいになっているのかなと。総理大臣も衆議院議長もね。
もちろん実際には、総理大臣は常に忙しいから、ほかの閣僚に代わりに行ってくれって、頼むわけです。
衆参の議長も忙しいので、両方行かなくてもいいだろう、となって、それに、それぞれに副議長がいて、全部で4人いるから、その中の一人が誰か行くようにしようと。
最高裁判所長官も忙しいから、ほかの14人いる普通の裁判官にも、交互で行ってもらうようにする。
そのように調整して、回しているんです。
だけどやっぱり年に2回ほどは、総理も来てくださいと乞われるから、行くんだけど、やはり目の前を、天皇が通り過ぎるだけなんです。
そうなるとね、この日本国って、どういう形の国なんだろうと、改めて思ってしまうね。
皇室の伝統行事というのは、一年中あるんです。そんな行事にも、三権の長が、行事に参加はしないんだけれども、その行事を横で見るような形で、行くわけなんです。中には夜遅い行事もあったりして。
総理大臣にしても、そのような行事に参加する、というんじゃなくて陪席、その場にいる、ということだけなんですね。ロウソクが灯っている薄暗い中に。
いや本当は、ほぼ見えてないんですけどね。千数百年前から口伝になっている、伝承になっている行事が、今まさに執り行われているんだ、とは思うんですけど、薄暗い中で。
それが憲法上問題だとか、問題ではないとかいう以前にですね、いったい何のために、それをやってるのかが分からない、ということがあってね。
そういうのを、ずっと私は見てたんで、いや、厳密にいえば見ることすらまともに出来なかったんだけど。ああ、こういう、日本の国の在り方というのを、一般の人は知らないでいるな、と思いもしましたね。
御所千度参り
(ごしょせんどまいり)
天皇は皇居にいて、古くからのお祈りをしているだけでいい、という考え方の人は、天皇制というものの見方が、浅いという気がしますね、私には。
時にそういう人は、伝統を重んじるようなことをおっしゃるが。
二千年以上の歴史を持つ皇室と、百年の歴史にも満たない憲法とを、同じように論じることはできない、とか、私たちの歴史の中心には、皇室がある、などとそういう人はおっしゃるが。
しかし同時に、陛下ご自身がお考えになったことにでも、駄目なものは駄目なんだ、と彼らは言い出す。
一つのイデオロギーだから、そういう考えになるんです。
イデオロギーとしての天皇や皇室に、陛下自身も、合わせてもらわなければ困る、と考えるのでしょう。
私は、それには批判がある。
やっぱり実際、台風や地震の被災地へと天皇が行って、体育館などを訪れて、しゃがみこんで膝をついて、お見舞いするというのは、総理大臣が行くことよりも、現地の人にとってはずっとインパクトがありますよ。
だから天皇の存在というのは、平和な時には想像もできないようなことが、地震や災害の時とか、飢饉や戦争の時とかには、大きくなってくるんですよ。
天明の飢饉のときに起こった、御所千度参り(ごしょせんどまいり)の話をしましょう。
江戸時代の天明7年、1787年に発生したという件です。
京都御所・建礼門
それはまだ9歳だった、光格天皇の世で、今の天皇の、直系の先祖に当たる方なんですが、政治的権力はまったく天皇にはなかった。全てが幕府にありました。
そして世の中は、天候不順で凶作がつづき、冷雨や洪水のなか、飢え死にする人が増えて、一揆も頻発しました。
天明の大飢饉です。
関西地方も激しい飢饉だった。
あるとき、誰か数人の者が御所にきて、お賽銭を、御所の塀の中へ投げ込んだそうです。
そして、天皇さま、助けてください、といって拝んで、拝みながら御所の周りを、延々と回ったらしいんですね。
すると御所へ、われもわれもと人がやって来て、いっしょに回り始めた。
またたく間に人数は増えていき、あっという間に数千人になり、3万人になり、大坂の方からも人は集まって、7万人に達し、京都はもう人であふれかえったそうです。
これを見かねて、後桜町(ござくらまち)上皇は、ちょうど手元にりんごが3万個あるから、といって人々に配ったり、有栖川宮や一条家などは、茶を、そして九条家や鷹司家は、握り飯を配ったそうです。
光格天皇はまだ大人ではなかったが、しかしこの事態をたいへん憂慮しました。京都所司代を通じて幕府へ、飢饉に苦しむ民衆を救済するようにと、要求した。
これはね、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)という、いわば法律に違反する行為だった。
立場はまさに今の天皇と同じで、政治に口出ししてはいけないというのが大原則だったのに、幕府に物申した。
厳罰は覚悟の上で、だったんでしょう。
幕府は、ところが天皇の意を受けて、米1,500俵を、京都の人々へ放出することにした。
そして光格天皇の行いを、不問にしたんですね。
天皇の言葉の後ろに、苦しむ多くの民衆がいたから、だったんでしょう。
その後も光格天皇は、幕府に向けて意見して、尊号一件という紛議を起こします。
そしてまた、朝廷の行動が民衆の救済に結びつく結果になった、この御所千度参りは、時を経て、幕末の尊王論や、ええじゃないかの大衆乱舞に、繋がっていったんです。
だからね、民衆による、天皇へのエネルギーというものは、予期せぬ時に、爆発したりもするんだと、私は思いますね。
小野次郎氏プロフィール
1953年生まれ 東大法学部卒業後、警察庁入庁。茨城県警、外務省在フランス大使館一等書記官、北海道警察、鹿児島県警本部長、警視庁暴力団対策第一課長等を経て、内閣総理大臣秘書官(小泉内閣)。2005年、自民党公認で衆議院議員初当選(比例南関東ブロック)。2010年自民党を離党、みんなの党に加わり同党公認で参議院議員当選(全国比例)。その後、民進党結成に伴い副代表。2016年まで参議院議員を務める。
現在は一般社団法人・日本企業危機管理協会 会長 等の役職にある。