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内田 樹さんからのメッセージ

「受験生のみなさんへ」

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 受験生のみなさんへ。
 こんにちは。内田樹です。この春受験を終えられた皆さんと、これから受験される皆さんに年長者として一言申し上げる機会を頂きました。これを奇貨として、他の人があまり言いそうもないことを書いておきたいと思います。

 それは日本の大学の現状についてです。いま日本の大学は非常に劣悪な教育研究環境にあります。僕が知る限りでは、過去数十年で最悪と申し上げてよいと思います。
 見た目は立派です。僕が大学生だった頃に比べたら、校舎ははるかにきれいだし、教室にはエアコンも装備されているし、トイレはシャワー付きだし、コンピュータだって並んでいる。でも、そこで研究教育に携わっている人たちの顔色は冴えません。それは「日本の大学は落ち目だ」という実感が大学人の間には無言のうちに広く深く行き渡っているからです。

 日本のメディアはこの話をしたがりません。ですから、はっきりとデータを突き付けて「日本の大学が落ち目」だという事実を知らせてくれたのは海外メディアでした。


「日本の学校教育はどうしてこれほど質が悪いのか?」という身もふたもない特集記事を最初に掲げたのは米国の政治外交専門誌であるForeign Affairs Magazine の2016年10月号でした。
 その記事は日本の大学の学術的発信力の低下の現実を人口当たり論文数の減少(減少しているのは先進国の中で日本だけです)や、GDPに占める大学教育への支出(OECD内でほぼつねに最下位)や、研究の国際的評価の低下などをデータに基づいて記述した上で、日本の大学に著しく欠けているものとして「批評的思考」「イノベーション」「グローバルマインド」を挙げていました。


 批評的思考や創造性を育てる手立てが日本の学校教育には欠けていることはみなさんも実感していると思います。けれども、「グローバルマインド」が欠けていると言われると少しは驚くのではないでしょうか。なにしろ1989年の学習指導要領以来、日本の中学高校では「とにかく英語が話せるようにする」ということを最優先課題に掲げて「改革病」と揶揄されるほど次々とプログラムを変えては「グローバル人材育成」に励んできたはずだからです。でも、30年にわたるこの努力の結果、日本人は「世界各地の人々とともに協働する意欲、探求心、学ぶことへの謙虚さ」(記事によれば、これが「グローバルマインド」の定義だそうです)を欠いているという厳しい評価を受けることになってしまった。


 問題は英語が話せるかどうかといった技能レベルのことではありません(ついでに申し上げておきますけれど、過去30年で英語力も著しく低下しました。現在、大学入学者の多くが英語をまともに読めず、書けないために、大学では中学レベルの文法基礎の補習を余儀なくされています)。日本の学生に際立って欠けているのは、一言で言えば、自分と価値観も行動規範も違う「他者」と対面した時に、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げる意欲と能力だということです。


 しかし、生きてゆく上できわめて有用かつ必須であるそのような意欲と能力を育てることは日本の学校教育においては優先的な課題ではありませんでした。
 学校で子どもたちが身につけたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる「身内」と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意思疎通が面倒な人間は仲間から排除すること、それを学校は(勧奨したとは言わないまでも)黙許してきました。


 でも、その長年の「努力」の結果、「あなたたちはグローバルマインドがない」という否定的な評価を海外から下されてしまった。学校生活を無難に送るために採用した生存戦略がみなさん自身の国際社会における評価を傷つけることになったわけです。たいへんに気の毒なことですし、長く教育にかかわった者としては「申し訳ない」と叩頭するしかありません。僕自身はそういう学校教育のありように一貫して批判的でしたけれど(どちらかというと「排除される側」の人間でしたから)、力及ばず学校教育の空洞化を止めることができなかった。それについては責任を感じています(だから、こういう文章を書いているのです)。

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 2017年の3月には英国の自然科学のジャーナルであるNatureが同じく日本の科学研究の劣化についての研究論文を掲げました。かつては世界のトップレベルを誇っていた日本の科学研究が停滞している実情を伝え、日本は遠からず科学研究において世界に発信できるような知見を生み出すことのできない科学後進国になるリスクがあると警告を発しました。

 


 米国の政治外交専門誌と英国の自然科学学術誌が相次いで日本の大学教育の危機について報道したというのはよく考えると「変な話」です。海外の教育学者が指摘したというのなら分かりますが、指摘してきたのは政治外交と自然科学の専門誌だからです。


 自然科学は国境や国益とは関係のないグローバルな領域です。あらゆる国籍、あらゆる人種、あらゆる宗教の人が自然科学の進歩という共同作業にかかわり、その果実は人類全体が享受できる。その人類的なスケールの活動にこれまで豊かな貢献を果たしてきた日本の関与が期待できなくなる。それは人類にとっての損失です。おそらく海外の科学者はそれを悲しんだのです。

 


 一方、米国の政治外交専門誌が日本の学校教育に警告を発したのは、日本の国際政治のプレイヤーとしてのプレゼンスが低下するリスクを重く見たからだと思います。米国にとって日本は東アジアにおける最大の友邦であり、「属国」です。このまま日本の知的衰退を放置していたら、それは米国の国益に悪い影響を及ぼすリスクがある。だから、日本の学校教育は「前産業時代に特化した時代遅れの教育システム」であるというように激しい言葉が用いられた。それは米国人からすれば、一種の「友情」の発露でもあったと僕は思います。早く失敗を認めて、手立てを講じろ、と。

 


 米英二国から日本の学校教育の失敗についての指摘があったことにはそれなりの歴史的意味があると考えられます。米英両国は大西洋憲章・ポツダム宣言以来、戦後日本の国のかたちについて制度設計の責任を(部分的には)感じています。はやばやと世界帝国であることを止めた英国はともかく、米国は今も戦後日本のシステムに対して(宗主国としての)責任と権限を自覚しています。日本の国力が衰微したら、それは盟邦としての米国の国益が損なわれるだけでなく、戦後日本社会の設計と運営にあたっていた米国の責任でもあるからです。だから、「友情ある苦言」はまず米英両国から到来した。そういうことではないかと思います。

 


 中国や韓国やASEAN諸国からは日本の学校教育に対する批判的なコメントが来ることはまずありません。日本が教育に失敗して、国力が低下しても、それは彼らからすればまさに「対岸の火事」に他ならず、東アジアにおける日本のプレゼンスの低下など痛くも痒くもないからです。


 ですから、友邦から海外から日本の学校教育について警鐘が鳴らされているということを日本の教育関係者は厳しく受け止めなければならないと私は思います。けれども、この事実について日本のメディアではほとんど報道がなされていません。なぜか。

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 制度に欠陥があるというのは「よくあること」です。でも、制度の欠陥についての指摘を聞き流して、失敗を修正しないというのは「よくあること」ではありません。それはより深刻な出来事です。人間は誰でも病気になり、怪我をします。その時には、どの臓器や生体機能が不調であるか、どこの骨が折れ、どこから出血しているかについて吟味がまずなされます。そうしないと治療が始まらないからです。でも、今の日本では「日本の学校教育が海外から否定的評価を受けている」という事実そのものが隠蔽されている。それは制度を手直しし、補正する手立てを講じる機会そのものを放棄するということです。

 


 驚くべきことに、教育行政の当事者たちは今も自分たちの失敗を認めておりません。客観的なデータが「日本の教育は落ち目だ」ということをにべもなく伝えているので、やむなく「教育行政は一貫して正しい政策を行ってきたが、現場が言うことを聞かずに、閉鎖的で封建的な遺制を死守しているために、教育が劣化したのだ。ゆえに教員たちから自己決定権を取り上げ、上意下達の仕組みに切り替えることが教育改善のためには急務である」という説明にしがみついている。 


 教育の「全面的な失敗」の責任は教育現場が行政の指導に従わないことにあって、行政側には何の瑕疵もない、そう言い張っている。もちろん、内心では「たいへんなことになった」と困惑しているのでしょうけれども、今さら「すみません」とは言えない。お役人は基本的に失敗を認めません。それで省庁の面子が保てると思っている。でも、そのせいで「失敗から学習する」という進歩と修正のための唯一つの道筋を自ら塞いでしまっている。

 


 ですから、気鬱な予言になりますけれど、大学を含む日本の学校教育はこれから先ますます「落ち目」になってゆきます。V字回復の見込みはありません。もうすぐに18歳人口の急減によって、大学が次々と淘汰されて消えてゆきます。2017年度で大学を経営する660の学校法人のうち112法人(17%)が経営困難、21法人は2019年度中に経営破綻が見込まれています。みなさんがこれから進学しようとしている先は、そういう危機的状況にある領域なのです。

 


 じゃあ、どうすればいいんだ、と悲痛な声が上がると思います。上がって当然です。分かっているのは「こうすればうまくゆく」というシンプルな解は存在しないということです。初めて経験する状況ですから成功事例というものがない。生き延びる方途はみなさんが自力で見つけるか創り出すなりするしかない。書物やメディアで必要な情報を集め、事情に通じていそうな人に相談し、アドバイスに耳を傾け、分析し、解釈して、生きる道を決定するしかありません。そして、その選択の成否については自分で責任を取るしかない。誰もみなさんに代わって「人生の選択を誤った」ことの責任を取ってはくれません。


 どのような専門的な知識や技能を手につけたらよいのかを判断をする時にこれまでは「決して食いっぱぐれがない」とか「安定した地位や収入が期待できるから」という経験則に従うことができました。これからはそれができない。日本の産業構造や雇用状況はこれから少子化高齢化とAIの導入で激変することが確実だからです。でも、どの産業セクターが、いつ、どのようなかたちで雇用空洞化に遭遇するかは誰も予測できない。

 


 ですから、僕からみなさんにお勧めすることはとりあえず一つだけです。それは「学びたいことを学ぶ。身につけたい技術を身につける」ということです。「やりたくはないけれど、やると食えそうだから」といった小賢しい算盤を弾かない。「やりたいこと」だけにフォーカスする。それは自分がしたいことをしている時に人間のパフォーマンスは最も高まるからです。生きる知恵と力を最大化しておかないと生き延びることが難しい時代にみなさんは踏み込むのです。


 ご健闘を祈ります。

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​当エッセイは『内田樹の研究室・2018-3-23』からの転載です。

​内田 樹 (うちだ たつる) さん

プロフィール

1950年東京生まれ。武道家 -合気道七段。

道場兼能舞台兼私塾「凱風館」館長。

神戸女学院大学名誉教授。

翻訳家。専門はフランス現代思想史。

ブログ『内田樹の研究室』主宰。

http://blog.tatsuru.com/

『ためらいの倫理学』『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』『そのうちなんとかなるだろう』『転換期を生きるきみたちへ』など著書編著多数。

 

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