ジャック・マイヨールさんに 出会って
その当時のこと
1969年(昭和44年)
1月 東大安田講堂落城
2月 日大バリケード封鎖全面解除
7月 アポロ11号月面着陸、アームストロング船長月面に降り立つ
その同じ1969年の8月
ブルーオリンピック(水中競技世界選手権大会)が、イタリア・ボルケーノ島で開催されました。
大崎映晋さんは、世界水中連盟日本代表として、そして成田均さんは、選手としてその大会に参加しました。
ボルケーノ島
成田さんは大崎さんの内弟子をやりながら、東京大学海洋研究所内の「大崎潜水学校(東京大学海洋研究会)」で、大学院生たちにむけて、潜水技術を教えていました。
そういう指導をしながら、成田さんは自身の技術をみがき、各種の国際大会に出場する選手になっていたのです。
イタリアのボルケーノ島での大会に参加しているさなか、大崎さんの元へと、フランス人のジャック・マイヨールさんが声をかけてきました。
日本人であるあなたの、手助けが欲しいんですといって。
明るくておちゃめな雰囲気でした。
彼のことを大崎さんはもちろん知っていました。
イタリア人のエンゾと、アメリカ人のロバートとの、三つ巴で、フリーダイビング(閉息潜水)の世界記録を、競い合ってきた人物です。
フリーダイビングに懸ける彼に、畏敬の念は抱きつつ、しかし大崎さんには、その競技への拒否反応がありました。
まるで「どこまで潜ったら人は死ぬか」を争う、ロシアンルーレットのようだからと。
水深50メートルでは6気圧が掛かります。当時の医学界ではその深度で、肋骨がすべて折れる前に肺胞が、潰れてはじけて、血へどを吐いてひとは死ぬ、というのが定説でした。
実際アメリカ人のロバートは、記録を塗り替えはしたが、競技中に潮に流され、必死にもがいて九死に一生を得た、その結果の新記録で、それを最後に引退しました。
そしてまた、話を少し先取りすると、エンゾも新記録を達成して、潜水から浮上していくさ中に、酸欠によるブラックアウトが起こり、医師から、以後の競技にストップがかかってリタイアすることに。
成田さんもまた、先々にですが、訓練したけれども水深30メートルを超えると、浮上してから血を吐くことがあったそうです。
それは体質的に横隔膜や胸郭が柔軟でないため、水圧で、肺の一部が損傷して出血したんだそうです。
それを契機に、成田さんは競技ダイバーを引退することになります。
そしてフリーダイビングで深さを競う競技そのものが、1970年12月に、世界水中連盟によって、スポーツとは認めないと決定されます。死に直結するゆえに。
それでも連盟とは関わりなく、ジャックさんたちは競い合っていくのですが。
話を1969年に戻しましょう。
過酷な競技です、フリーダイビングは。
ジャックさんはその競技に、日本の葉隠れの精神や、禅宗の死生観を取り込んで挑戦したいから、ぜひとも手助けしてほしい、と初めて出会った大崎さんに懇願したのです。
大崎さんは、彼がいう精神の部分に興味をおぼえて、訴えを受け止めることにしました。
伊豆沖でのトライ
大崎さんはユネスコ本部から、世界記録認定の責任者に指名されました。
成田さんたち大勢と一緒になって準備をすすめました。
そしてジャック・マイヨールさんは、近くの禅寺で習得した座禅の効果もあって、伊豆の富戸での毎日の練習では、少しずつ潜る深度を増していきました。
ヨガの深呼吸をし、大気をからだ全体に吸い込み、右手で錘をつかんで、左手で耳抜きをしながら、船を離れます。
海底へと、真っすぐに向かっている一本のガイドケーブルに沿って、垂直に潜降します。
そしてついにジャックさんは、1970年9月8日、76メートルの世界記録を達成しました。
ジャックさんは競技を離れると
いつも明るくほがらかだった
ジャック・マイヨールさんは中国の上海で1927年に生まれました。
12歳のとき、一家でフランスのマルセイユへ引っ越しましたが、高校卒業後は家族と離れて、北極圏でイヌイットと暮らすなど、旅をくり返しました。
デンマーク人と結婚して子どもが生まれても、また旅に出る。ついに離婚にいたり。そして本人の女性好きは言うまでもなかった。
そんな経歴のジャックさんだったからこそ、世界チャンピオンの称号を持つことで、自身のアイデンティティーを得ようとしている、と評されることもありました。
それは間違いではないのかもしれない。
しかし単に勝ちたい、チャンピオンでいたい、という表層のところよりも、死と、隣り合わせの中でしか見えないものを、彼は見ていたのでしょう。
ふだんは明るく振る舞うけれども、心の内ではそっちを見ていたはず。だからこそヨガや座禅など、精神世界にもこだわって競技に臨んでいた。
その、死と隣り合わせの中で見たものによって、ジャックさんは一つの仮説を立てたんだと思われます。
ひとという生物が、いったんは死んで生まれ直すようにして、ふたたび水棲能力を、取り戻せるのではないかという、それは仮説で、ジャックさんは自分のからだを使って、競技のなかで実験して、それを検証しようとしていた節がありました。
ひとが水棲能力を取り戻す? そんな話はとっぴだよ、と思われるかもしれません。
でも、ひとの体液は海水の成分や濃度にとても似ています。胎児は母親の胎内にいる間、海水に似た羊水の中で育ちます。誰もがそのときは水棲だったのです。
生物は大昔に、海の中で誕生しましたし。海の中で進化した。そして海から、陸へあがってさらに進化したのがひと。イルカやクジラは、陸からふたたび海へと帰っていった。
その事実を振り返ると、ジャックさんが立てた仮説にも、耳を傾けてみようかと思えてきます。
ジャックマイヨールさんは、その考えを「ホモ・デルフィナス」という一語に込めました。人間「ホモ・サピエンス」と、イルカ「ドルフィン」からの、ジャックさんの造語です。
そしてこの一語「ホモ・デルフィナス」は、その後しだいに、水棲能力を高めるという身体的意味合いよりも、よりメンタルな意味合いに、つまりジャック・マイヨールさんの生き方を反映した、理論になっていきました。
しかし、ホモ・デルフィナスって、どうしてまた、イルカなんでしょう。…クジラやジュゴンではなくて。
イルカにうながされ
ジャックさんは幼いころにイルカと出会いました。日本の海で。
第二次世界大戦までの時代は、大陸の、上海租界(外国人居留地)に住んでいた家族の多くが、夏休みをほぼ毎年、定期航路のあった長崎へと渡って過ごしていました。
ジャックさん一家は、佐賀県唐津市の、七ツ釜で過ごしていました。
そして最初は母親から、つぎには地元の海女さんたちからジャックさんは泳ぎを教わり、その同じ海で、野生のイルカに出会ったのです。
人なつっこいイルカは、こいつ何者? とジャック少年を観察したことでしょう。
とうぜん少年の方も、なにやつ? と見入った。
そうして互いに注意深くだったけれども泳ぎ合い、近づき合って交流できた、そう感じた。
イルカが、沖へと帰ってゆくときにはジャック少年は、またいつか会いたい、と心の底から思ったのでした。
次にイルカに会ったのは、ジャックさんが成人してからでした。
放浪の旅をしたのち、結婚して子どももできた30歳のときに、マイアミの水族館を、ジャックさんはラジオ局のレポーターとして訪れました。
そこで潜水の腕前をジャックさんは見込まれて、イルカの調教を、アルバイトとしてやることになったのですが、クラウンという、それはそれは素敵な雌イルカに出会ったのです。
たちまちジャックさんは20年前の、唐津の海で泳ぎ合ったイルカを思い出し、懐かしさがこみ上げました。
そしてクラウン自身の、泳ぎの優雅さに魅せられました。
それはほとんどひと目ぼれという感覚でした。
しかし同時に、ジャックさんには胸苦しさがこみ上げました。
イルカは望んでもいないのに、人間の勝手で狭いプールに一生閉じ込められている。人間の楽しみのために、芸を憶えろと強いられる。いったいこのクラウンに、じぶんは何を強要できるんだ。
実際問題、教わりたいのはこっちじゃないか。
との思いからジャックさんは、規則外の時間帯にもできうる限り、ダイビングスーツを脱ぎ捨ててプールに入りました。
そうしてクラウンから、水の中での処し方を教わったのです。
ジャックさんは一息で150メートル以上潜れるようになりました。3分半は、水中にいられるようにもなりました。
クラウンがジャックさんの調教をしたとも言えました。
クラウンが赤ちゃんを産んだときには、ジャックさんは思い立って、自分の3歳半になる息子をクラウンのもとへ連れて行きました。クラウン親子と一緒に、自分たちも泳ごうと思ったのです。息子はもうすでに十分に水に慣れされていたので。
シュノーケルをつけた息子はためらうことなく、素手でクラウンの背びれにつかまりました。
実はクラウンは、自分のからだを、人間の素手ではさわらせなかったのです。
ジャックさんもそれまでは、ダイビングスーツは脱いでもゴム手袋だけは外したことがなかった。
しかし3歳半の息子に倣って、ジャックさんは手袋を外し、おそるおそるクラウンに手をのばすと…触らせて、もらえましたよ。
クラウンと赤ちゃんと、息子とジャックさんは、連れ立ってプールを泳ぎました。感動でした。これこそホモ・デルフィナスだと感じました。
そんな至福の時は、しかし長くはつづかなかった。息子が重い外耳炎にかかり、水族館側が、それまでは見て見ぬ振りをしてきたジャックさんのプールでの振る舞いを、一切禁止にしたのです。
そのこと機に、ジャックさんは妻子をその地に残したまま、別の地へと旅立ちました。
以上のようにジャックさんは実際にイルカから学んで、それを基に「ホモ・デルフィナス」を形づくっていったのでした。
ドルフィン・ブラザー
成田均さんは、大崎さんとジャックさんが英語でしゃべり合っているのをそばで見てきて、なにか神々しいように感じていました。ご自身は英会話が苦手です。
けれども、伊豆沖で 76メートルの世界新記録をジャックさんが打ち立てたあと、成田さんは、思い切ってジャックさんを旅に誘いました。そのフランス語訳をひとに頼んで伝えました。
「お祝いの気持ちと、そして記念の意味をこめて、今回は日本の、北の海を潜りまくる旅にご招待したいのですが」
そのころジャックさんには、ゲルダというドイツ人の恋人がいて、伊豆での記録挑戦時から、彼女は日本に滞在していました。
その二人を成田さんは、自分の幼馴染みが運転する一台のダンプカーで、きままな旅に連れ出したのです。
荷台には幌を掛け、フランスベッド1台とテントを何張りか積んで。
そして成田さんの生まれ故郷である秋田へ向けて、日本海を、北上する途中で気に入った海が見つかればそこに停車し、みんなで潜って、採った魚や貝を焚火で料理して、わいわい言いながら食べる。暗くなったら、ジャックさんとゲルダさんは荷台に積んだベッドで、ほかのみんなはテントを張って寝る、という旅でした。
成田さんの実家にも一泊し、母親の手料理もふるまいました。
そして太平洋岸の岩手県からまわって、またあちこち潜りながら南下した、その2週間の旅は、まさに夢のようでした。
その旅の間、ジャックさんと成田さんはドルフィン・コンタクトをしたそうです。
ドルフィン・コンタクトとはつまり、日本語をほとんど理解できないジャックさんと、フランス語はダメで、英語もほぼ片言という成田さんが、それでも知ってる単語の、2%の言語を使って、あとは48%のボディ・ランゲージと、そして50%のテレパシーによって、会話を成立させたということです。
それはかつて、ジャックさんがマイアミの水族館で、イルカのクラウンと意思疎通をしたことと重なります。
ジャックさんと成田さん、二人とも海の中でも生きられるくらいの、半水棲生物であったから、だから言語が不十分でも会話ができたのでしょうか。
ジャックさんと成田さんは、この旅以降、互いをドルフィン・ブラザーと呼び合いました。
しのぎを削り合い100メールへ
1970年9月(伊豆沖)
ジャック・マイヨール 76 m
1973年8月 (イタリア・ジェノバ沖)
エンゾ・マイオルカ 80 m
1973年11月 (イタリア・エルバ島沖)
ジャック・マイヨール 86 m
→→ このとき、普段はいないイルカが数頭あらわれ、記者たちが騒いだという
1974年9月 (イタリア・ソレント沖)
エンゾ・マイオルカ 87 m
→→ エンゾはチャンピオンのまま引退
1975年10月 (エルバ島沖)
ジャック・マイヨール 92 m
1976年11月 (エルバ島沖)
ジャック・マイヨール 100 m
100mをジャックさんが達成したときは、メディアは、
「人類で初めて月に降り立った男、アームストロング船長、そして、人類で初めて素潜りで 100メートルの壁を越えた男、ジャック・マイヨール」と報じました。
100メートルはまさに快挙でした。取材が殺到し、ひとびとは彼を称賛しました。
しかし実は、当時のジャックさんの心には、非常に大きな傷があったのです。
れいの東北をダンプカーで潜りつくす旅にも同行した、ジャックさんの恋人ゲルダさんが、その旅の直後に二人で移り住んだフロリダにて、アル中患者の犯行によって、いのちを落としていたのです。
ダイビングスクール
館山の地に結婚して落ち着いた成田さんは、潜水の会社を兄と共につくり、漁協との仕事や造船所での仕事をしていました。
そんな成田さんのもとへ、ジャックさんは、ふらりと訪れるようになりました。ゲルダさんの思い出と一緒に。
館山の地は太平洋に近く、黒潮も流れ込んでいるため、海はソフトコラールなど30種類以上のサンゴや、さまざまな生き物であふれています。
二人は潜って、浜で寝そべり、ドルフィン・コンタクトでふざけ合いました。
そしてジャックさんは、成田さんに向けてじぶんの考えをぶつけました。
「ナリタ、人生は大きな冗談だ。
人間のつくったルールは、あまりにも人間の都合だけによってつくられている。
われわれは海で、もっと遊ばなければならない。
われわれは、海の生物から進化したものだから、母なる海に抱かれていれば、これからわれわれがどう生きていけばよいかが、見えてくるだろう」
ジャックさんは成田さんへ本音を吐き出しながら、「ホモ・デルフィナス」の理論を深めていきました。
成田さんの方は、人間はもっと海で遊ばなければならない、というジャックさんのことばに同調し、そして考えました。
日本人は海を、食糧を獲得する場所、あるいは物流のための場所とは思っているが、親しんで遊び憩う場所とは、ほとんど思っていないんだろう。外から眺めて鑑賞する場所、ではあるけど、中に入って楽しむ場所とは思っていないな。
そう考えてみると、成田さんには、つられて師匠の大崎さんが言っていた言葉もよみがえりました。
「四方を海に囲まれていながら、日本人はずっと海に背を向けてきた。日本人は、海洋民族とはいえない」
成田さんは考えた末に、ダイビングスクールを始めることしました。
兄との会社はやりつつ、自宅を増築したところに、「シークロップダイビングスクール」を。
多くのお客さんが出入りするようになり、ジャックさんも、前にも増して訪れるようになりました。
成田さんと ジャックさん
そうして自宅の環境がさま変わりした結果、成田さんは離婚することになりました。
ジャックさんは、なあ、ナリタ、と声をかけました。
「オレたちは良き亭主、良き家庭人としては失格だった。だけどその分、世の中に、人々に、少しでも多くの夢を与えるような、仕事をしなければな」
ジャックスプレイス
ジャックさんはイタリアのエルバ島沖にて、大学の専門家や、医学や潜水生理学のエキスパートと共に、特別チームを組んで「潜水と人体に関する実験」をつづけました。
10種類ほどの実験をやりました。
例えば、数十メートルの深度では、脈拍が26回になり、赤血球が非常に増加することが測定されました。
イルカやクジラにみられる大深度における現象も、測定されました。
それはつまり、大深度では血液が脳や心臓や肺に集中して、生体を維持しようとするブラッドシフトという現象が、人間にも同じくみられることが、ジャックさんの身体によって証明されたということでした。
そして1983年、ジャックさんは56歳で、105メートルの記録を打ち立てます。
それを機に競技から引退しました。
1988年、リュック・ベッソン監督によって、ジャックさんをモデルに描いた映画、『グラン・ブルー』が公開されました。
作品は大ヒットして、ジャックさんを世界的な有名人に押し上げ、テレビや雑誌の取材や、講演やCMの依頼などが、ジャックさんに舞い込みました。
ただし、映画の中で描かれたのは、監督がつくった寡黙でストイックで、ひとを寄せ付けない別人格のジャック・マイヨールです。
そちらの方が、ところが独り歩きをし始めました。
そして、そちらの知名度を利用して一山当てたい、儲けたい、という輩も寄ってきて、本物のジャックさんはストレスでどんどん疲れていきました。
疲れ切って館山を訪ねてくるジャックさんを、見かねて成田さんは、一軒の古い木造家屋を購入します。
そこをジャックスプレイスと名付けて、ジャックさんの滞在場所としたのです。
ジャックさんはそこで、浴衣を着て原稿を書いたり、読書をしたり、海に出て遊んだりと、一年のうちの6か月から9か月は、自由にくつろいで過ごしていくことになります。
ジャックさんの名刺には、イタリアのエルバ島に建てた自宅の住所と、日本の館山の住所が併記されました。
ジャックスプレイスプレでくつろぐジャックさん。写真の左端
ジャックスプレイスで、ドルフィン・ブラザーの二人は囲炉裏をかこんで語らいました。
「バクテリアを含めたすべての生命は、母なる地球の子どもたちだ。
その一番の末っ子の、一番知恵があるはずの人間が、実はお母さんを傷つけてるんじゃないか。
地球にやさしくなんて美辞麗句をつかって、地球を壊しているのは他ならぬ人間だ」
「人類は核からエネルギーを取る知恵も技術も手に入れたけど、核廃棄物を、正しく処理する技術もノウハウも、手に入れてはいない。いま核をいじるのは時期尚早だ」…
二人は有意義な時を過ごしました。
けれども成田さんは、ジャックさん自身から、根本的なストレスは取り除かれていないのでは? といぶかっていました。
ときには、浜辺にたたずんでじっと海を見つめているジャックさんの、なんとも寂し気な姿を見かけました。
ひとを寄せ付けないそんな背中へは、成田さんは声を掛けられずにいたのでした。