先史
紀元前、中国南部から台湾を経由して、ニューギニア方面へ、そしてそこからハワイなど、南方に広く点在する島嶼へと、多くの人類が渡っていった。
現在のこども嵐土である本島、および周辺の島々へも、人類はじょじょに移動した。
なかには日本列島へ向かった集団もあった。
その全体をオーストロネシア人と呼称する。
かれらはおよそ島単位で部族を形成し、それぞれの文化を育んでいった。
凪の時代
本島にはもとより平坦な耕作適地と、豊かな森とが存在した。
そのため環礁からできた周辺の島々、環礁州島に住む部族は、争ってこの島を占有しようとした。
複数の部族が、敵味方に分かれて島を奪い合った時期は、断続的な休戦も挟みながら、100年200年とつづいた。
それほど長くつづいた訳は、争奪戦がしだいに部族同士の一種の行事のように、形骸化していった為とも分析されている。
現在名では、ピケーン島、ヘルソオ島、ラル島、アイアイロ島、フースー島にいた5部族が、そういった形式的で祭事的ともいえる戦闘をつづけた。
各部族は本島のあちこちに縄張りの地域をもち、数名の戦士を常駐させた。それが可能になったのは、本島の先住民に、素直でおとなしい非暴力性があったからだ。おのずと各部族に吸収される形で、島の各所が開放されていった。
そのまま時が過ぎていたなら、この島は各部族間において、平和裡に共有され続けたのかもしれない。
血の時代
あるとき、漂流民である2つの部族が、相前後して本島へやってきた。
そのどちらの部族もが、島の各所にあった5部族の陣地を襲撃し、常駐していた戦士を殺害した。
漂流民の2部族は最新式の武器を所持していた。そのため最後は、その2部族で、決戦が行われる流れにもなった。
漂流民は海をわたり歩く性質上、部族の女性や子どもを常に帯同しており、島にいる敵を蹴ちらし終えたらば、たちまち全島を占有できる体制であった。
ここにきてようやく、凪の時代を生きてきた周辺の5部族に、本来の攻撃的戦闘意欲がよみがえった。島は昔から我らのみに属していたのだ、余所のどんな部族にも、好き勝手はさせぬ。と、5部族がそれぞれに声をあげた。
保たれていた部族間の力の均衡は、そこで一気にくずれ去り、常駐戦士を殺した漂流民には、目にもの見せよう、と5部族のほうも族長を先頭に、女性と子どもを帯同して島へ攻め入った。
漂流民には最新の武器があったが、5部族は、地の利を生かしてそれに対抗した。熟知している島の地形を利用しながら戦った。
7つの部族、全てが入り乱れて打ち合い、殺戮し合うという最初で最後の大戦となった。
白兵戦で男たちが全滅すると、その部族の女たちが前面に立った。戦う前にせん滅される女たちもいて、子どももそこに巻き込まれた。そして、残党となったおとなは最後には、みな相打ちによって倒れていった。
全島が血に染まり、浜には赤い波が打ち寄せた。各部族のおとなたち全員が死んだのだ。
その大戦の1コマが、壁画に描かれて、本島北部の洞穴に今なお残っている。(壁画のページへ移動)
始まりの子どもの時代
島全土と、島をとり巻く海域には、おびただしい数のしかばねがあった。浮いていた。
7つの部族の、全てのおとなたちが死滅したのだから。
彼方から、四本脚の鳥が、群れになって島に飛来した。
あたりに転がっているしかばねを、その鳥の群れは一体ずつ、ついばんでいった。鳥はかぞえ切れない群れであったため、直にきれいに食し終わった。
島は自然と片づけられた。そして、四本脚の鳥の群れはふたたび飛び去っていった。
島北部にある、あちらこちらの洞穴から、子どもが一人二人と這い出してきた。
大戦前には、どの部族もが、引き連れている子どもを守るために洞穴に潜ませていた。けっきょく洞穴は攻撃対象となり、あまたの子どもが殺された。だが、なかには運よく、隠れおおせた子どもがいたのだ。
洞穴が点在する中ほどに、見通しのいい開けた場所があった。おのずとそこへ、子どもたちは集まってきた。4歳から12歳までの子ども、計20人だった。
自分がどの部族に属していたのかを、どの子どもも口にしなかった。
ただ、その顔付きの違いから、7つの部族が集っていることは知れていた。
子どもたちはみな、あの大戦の様子を、おとなとおとなが殺し合う様を、洞穴に潜みながら覗き見ていた。
おとなのように、もしも振舞ったなら、必ず戦が始まって自分も相手も死滅する、とすでに集った誰もが学んでいた。
子どもたちはだから、おとなの真似はしないと決めた。部族の話は持ち出さない。部族を越えて、協力し合い、今の子どもの心のままで、手をたずさえ合うんだ、そうやって共に生き延びるんだと決めた。
まずは一つの大きな洞穴を住みかとして、全員で手分けをして、食べ物を探した。年長の子どもは、幼少の子どもを助けながら探した。
四本脚の鳥の死骸を見つけた。それはまだ新しく、何羽も、落ちているのを拾った。
どこかの部族の、火起こしの道具も発見し、煮炊きをできる目処が立った。
島の南部にまで足をのばして、木の実も採った。
その道中で、1歳くらいの幼児が、ぽつねんといるのに遭遇した。あの大戦をどこでどうしのいだのかは分からなかった。しかし、連れて帰って20人で世話をすることにした。
島でサバイバルをしていく仲間は、21人になった。
嵐土に国をつくる時代
世界が大航海時代に入ると、航行に支障をきたした船が、本島へ臨時で立ち寄ったり、難破船からの漂流者がたどり着いたりと、島民にも、他国や他民族との出会いが生まれ、おのずと交流が始まっていった。
21人の子どもであった仲間は、すでに成長して家族をつくっていた。漁をして耕して、代替わりをして、おだやかな暮らしを営んでいた。
本島に寄航してくる者があれば、そのつど受け入れた。そして大型船が本島近くを通過するのを待って、送り返す手助けもした。
平和な日々はつづいた。
そんなある時、宝探しの地図をたずさえた、地肌の白い、西欧人と思しき者が島を訪れた。
その3名の船乗りたちは、水や食料を振舞ってくれる島民の、その親切心にふれ、そしてまた島内を散策しては、作物を豊かに実らせている土地を目の当たりにして、この島こそが、自分たちが目指してきた宝島であると考えた。
宝は、長い危険な旅の末の戦利品である。つまり宝である島は、自分たちのものなのだと。
かれらの船には、どう猛な犬が数匹飼われていた。
宝探しの過程で敵対してくるものに対して、攻撃をしかける犬だったのだが、その数匹を、かれら異人は島民に向けてけしかけた。
恐怖をそうして与えながら、支配を進めた。
反発する島民はそんな中でもいた。しかしかれら異人は、一人の島民を択んで金貨をにぎらせ、反発者を分断して、黙らせていった。
かれらの統治は、特に島の子どもを恐怖させた。教育施設と称する小屋に、島の子どもらを寄せ集めて囲って置いたのだ。あたかも人質のような扱いだった。
島民たちには成すすべもなくなった。
つねに放し飼いにされている犬は、涎をたらしながら走り回り、島民たちにしては、恐ろしい野犬の群れそのものだった。
尻や足を噛まれるくらいは日常茶飯事で、産まれたばかりの乳飲み子が、野犬に食われる事件も起きた。
恐怖政治はしばらくつづいた。
けれども、全島民は実のところ、この支配に屈していなかったのだ。
雌伏して計画をねり、時を待った。
まずは森に生息する毒ヘビから、毒を採った。野犬に、毒入りの餌をあたえて、足腰の立たない不具にした。
そうしておいて島民は、団結し、一気呵成に反撃した。小屋にいた子どもたちを奪還し、異人の支配者3名を、捕らえてカヌーに乗せ、沖へと引っ立てた。
一頭のクジラが、波を立てながら回遊ルートを泳ぎゆく。
そのクジラの背に、島民たちは3名の船乗りを括りつけると、そのクジラが泳ぎゆくのを見送った。
島民たちは、この苦しみと屈辱の時期を、野犬統治の時代と呼んで、記憶することにした。
異人が持ちこんだ地図(地図のページへ移動)は、島のものとして取り置くことに決めた。
感情的には、破り捨てたい時代のものではあるけれど、本島はその地図に描かれた通りの、宝の島なのだ。そこに間違いはない。
忘れてはならない自分たちの歴史を、その征服者の地図に重ねて、後世へ伝え残すことに決めた。
島民たちはさらに議論を重ねた。そして外敵から、島の平和な生活を守るためにも、「こども嵐土」という国名を、今この時から掲げようと決議した。
後には「こども嵐土憲章」(こども嵐土憲章のページへ移動)も制定した。